ただの花売り娘

自分の中の本棚

本棚に仕舞う話と名刺代わりの物語

最近お誕生日をお祝いされたりして、思い出を振り返ることが多かった。

カメラロールを見ると楽しい思い出ばかり残してあるので、キラキラした表情ばかりだった。

でも、LINEを遡ったり、ほぼ開かないアルバムを開いてみたり、昔の落書きを見つけてみたり、、

そうしたら、窮屈な思い出もたくさん残ってた。

 

 

 

 

高校の頃は海沿いのプレハブ校舎の牧場で音楽を奏でていた。きっとカルメン組曲を演奏するくらいの重厚感のあるブレーメンの音楽隊だっただろう。

でも私はその中でひたすら涙を流していた。湘南の海であると思っていたのに、牧場だったのだから。海だったらもう少し海風を吹けたのかもしれないし、身動きが取れたかもしれない。牧場では毎日音楽を奏でるだけで精一杯だった。

その中で輝いていたのは牡牛の顔した魚だったのかもしれない。続けてるのはすごいよ!頑張ってる!えらい!かわいい!って言ってくれるだけで嬉しかった。素直だから天邪鬼がバレてるって言ってくれたところに惹かれたのかもしれない。

その時、素直な私を助けてくれてありがとう。

 

私が毎回どんな場所でも涙を流していたのは自分が今のどんな感情かがわからないことがわからなかったからとりあえずの涙だったと思う。圧倒的に自己感情が足りない。でも側から見たら悲しくてつらくて泣いている様にしか見えないから意味がない。でも面白いことに、牡牛は見て見ぬ振りをするが、山羊は慰めがうまい。

自分が美しいと思ったものを身に纏ったら、笑われる牧場。美学が音楽に偏りすぎると周りのことが目に入らなくなるんじゃないかな。繊細な和音を奏でる中で私は音に溺れることはできなかった。だから、街に出たかったんだと思う。牧場の音楽じゃないものも観に行きたかったんだと思う。この目で。

 

 


そして晴れて、大学では服飾美術という名の美学を学んだ。しかし、牧場で育ったため美学というより、優しく優しく接することしか知らなかった私は、二宮金次郎の様な体制で読みきれてない本を背負い、カーキを纏い、髪をお団子に結い、笑顔を固定して、学校生活を過ごした。目にするものが音に縛られてないカラフルな洋服というのは新鮮で、可愛いものは可愛い。と言い合える環境はドキドキした。

そしてその中で優しさを被らなくても貴方がいいと言ってくれる人がいた。嬉しかった。

そしてたくさん話して、たくさん物語を聞いて、やっと背負っていた本を本棚に並べることができて、身軽になった。そこからが私の風の始まりだと思う。

ここからが早くて、今までの感受性経験値を使いこなしていった。もちろん場数は少ないので失敗もたくさんしたけれど、段々自分の美学やスタイルが出来ていった。

美しいものを美しいと言える世界が美しかった。

きっとそこから物語が色づき始めたのだろう。

自分でも物語を少しずつ描き始めようと思った。描いた事がないから、描き方もわからないけれど、とりあえず描いてみよう。

それが未来へ誰かへのお手紙かもしれない。

次、紹介するときに名刺代わりの物語を描いておくときっと便利だから。

 

 

 

 

 


 

私が楽しい時は、

一緒に笑って欲しいし、もっと楽しいことしたい。

 

私が辛い時は、

風が隣にいるのならこぼれそうな涙を乾かして欲しい。

風以外が隣にいるのなら同じ感情で先に泣いてくれると助かる。泣いていいって気づけるから。

 

  

 

 

 

 


今までは周りの環境が自分を作り出すと思っていた。それは子供の頃の話。それは地の時代の話。この牧場の話は大切に特別な本棚に仕舞おうと思う。

これからは自分が周りの環境を生み出す。創り出す。これが風の時代。


華の使いって風を使いそう〜

華麗に丁寧にこなしていきたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤いダリア「華麗」

                花売り娘