ただの花売り娘

自分の中の本棚

心の瞳

そういえば小学校4年生の時からの友達と会った。

 

その子はかなり人から受ける感情を抽象的にダイレクトに受ける子で、その感情を自分で噛み砕いて表現するのもかなり苦手だ。

その子は保育園の先生になった。

絵を描いたり、ピアノを弾いたり、才に溢れた人なので、それが全部できるから。という理由は少し納得した。

でも、保育園の先生は体力が必要だし、保護者への細やかな気遣いなどもきっと大変だろう。

 

かなりストレスを感じやすい子なので、「元気だった?」と聞くと、「元気な時と元気じゃない時があるからぼちぼちだよ〜」って言ってた。

元気!!って無理して言わないところがゆるくて正直で好きだったなーと思い出した。

 

 

物静かな不動の潤滑油担当である彼女は私の前ではかなり饒舌になる。久しぶりに会った瞬間から、保育園での話をたくさんしてくれた。

 

たまたま喜怒哀楽の話になって、私は怒哀が薄いかもって話をしてたら、彼女も気づいたかのように私は全部薄いって言っていた。

膨大な感受性を受け取りすぎてしまって、それを放出できなくて、それがアウトプット出来ずもどかしくある時があったのだろう。

私もそれは昔から感じていた。

 

小4の頃の私は給食の時に彼女に軽はずみに「なんで〇〇ちゃんはお味噌汁の下に溜まってるカスが嫌いになのー?」と聞いたら、彼女は泣き出してしまったのを覚えている。

たぶん彼女もなんでこれが嫌いなのか、について考えたことがなかったのだろう。そしてそれを考えすぎてしまったが故に涙が溢れてしまったのだろう。

その時はごめんね。

でも、私たちはよくこれを笑い話にする。

 

そして、そんな彼女は保育士になって、喜怒哀楽の感情をなんの縛りもなく放出している子供達と毎日接している。だから、感情が出せないなんてことは言っていられない。感情を露わにしないと子供達から信頼は得られない。

凄い世界だと思った。

そして、彼女は自らその場を選んで、毎日本気で子供達と向き合ってる。昔の彼女も好きだけど、今の彼女も好きだな。かっこいい。

 

 

そう考えたら、私たちは大人になった。時間がかかったとしても会話ができる。

大人は理解力があるから条件を見て物を選んだり、その場に応じた言葉を選んだりする。それが私達にとって自分を抑えてしまうという意味で、いいのか悪いのかはわからない。やはり、なにも考えていない小中学生はやはり無敵だったのかもしれない。

 

 

そんな彼女とも一年に一回は会えてるけど、出来るだけめんどくさがらず、地元で美味しいお酒を飲み合えるようになれたらもっと嬉しい。

走って10秒の家の近さなのだから。

 

 

 

ハッピーバースデー